ニーチェ「ツァラトゥストラ」【同情深い者たちについて】読解と解釈(1)

今回から(2024年9月17日〜)、ブログのタイトルを「Pikeの歴史解釈」から変更し、【Pikeの思想と解釈】とし、歴史に加えて哲学や倫理の学問を身につける過程を記すようなブログにしていけたらなと、思っています。読者の方にもその学びの臨場感をできるだけ追体験していただけるような、分かりやすい言葉を使っていくつもりです。自分の興味のあるところだけを紹介することになりますし、時々、私の独断も入ってしまうかもしれませんが、あくまで「いち学習者として」の姿勢を大事に、思想を丁寧に解釈していくことを目指しています。

今回は、ニーチェ「ツァラトゥストラ」(ちくま学芸文庫版を参照しています)の、第二部〔3〕【同情深い者たちについて】を考察していきます。

原文中のキーワード‥〈同情、羞恥、喜ぶこと、悪行の正直さ、大いなる愛、創造者〉

【同情深い者たち】と聞いて、何を想像しますか?

私は、まず「共感」に対する批判をするのかな?と感じました。しかしそれは、苦しさに寄り添う、というところまでは適切な読み方でしたが、論が進むにつれ、同情の中にある、相手を辱めるような要素をツァラトゥストラは挙げていることに気が付きます。

そもそも、共感することと違って、同情することは、想像力を使わずに自分の基準で思考することを指します。そして、同情する者には、「羞恥心」が欠けているとツァラトゥストラは言っているのです。それは、相手が弱い立場にいることを恥ずかしく思わせないようにすることは、本人自身の羞恥心である、という人間の心情の「機微」のことを言っているのでしょう。それはツァラトゥストラのいう(同情の上の)「さらに一つの高み」としての心情であり、「人間の歴史」を作ってきたもの、だとするのです。

私は、同情する者は、そうすることによって、自分の弱い惨めな部分を巧妙に隠すことと、自分の優越に満足しながら慰めることの両方を同時に行なっていて、それがツァラトゥストラの問題にしているところではないか、と考えます。同情はあけすけな感情でありながらも、隠すところがあり、そのようなウソをついているというのがツァラトゥストラの批判するところなのでしょう。加えて、ツァラトゥストラは〈喜ぶこと〉を称賛しています。これは、同情し同情されることによって生まれる負の感情に対しての、明るく正しい感情として説明されていると感じました。

さて、その後に展開される「悪行の正直さ」というフレーズについて、どういう印象を持ちますか?   多くの人は、悪の痛快さや、主張の強さ、などを思い浮かべたものと思います。私は、ニーチェの思想の中心にある【攻撃性の正しさ】みたいなものに、とても関心があります。それについては、今後の記事でも触れていきたいと思っています。もっとも、この節では「もろもろの小さな考え」にとらわれるよりは、表面化する負の側面としての悪を正直なものだと比較しているに過ぎないのですが。

そして、次のフレーズに、私はニーチェに対する感銘を覚えました。それは、

「…だが、君が君に対して悪事を犯したこと、ーそれをわたしはどうして許すことができよう!」

という「あらゆる大いなる愛」についての言葉です。この言葉は、一人一人の罪の苦しみに報いる、深い思いやりだと感じます。それは紛れもない〈共感〉でしょう。「創造者」たちの、同情よりもさらに上の愛とはそのようなものだといいます。

この節の大意は,他の節との関係も考慮する必要があり難しいため,実際に読者の方に原文を読んでいただくことをお勧めします。

今回解釈を試みた部分での気づきとしては、羞恥心が大切な感情であり、人を愛することにつながっていることが、印象に残りました。そして、今後のニーチェ読解にあたっての課題は、「創造者」とは別の視点では何を指すのか、「超克」とはどういうものか、冒頭の人間=獣という解釈の真意、など、数多く挙げられます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。これからもっと記事を面白くしていきたいと思いますので、気が向いたら、また立ち寄ってくださいね。

参考文献;ニーチェ『ツァラトゥストラ』上巻 吉沢伝三郎訳,ちくま学芸文庫,1993年

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